SSブログ

AI miss MICHAEL JACKSON ~KING OF POPの奇跡~ Vol.1を見た [テレビ]

私は、マイケル情報に疎いので
ほとんど知らないことだらけでした。

再放送するようですから
興味を持った方はご覧ください。
http://www.m-on.jp/kingofpop/gallery.html

「スリラー」のビデオクリップに出てきた映画館を訪問。
「ロケの時は、本当にすごい人だかりだったわ。」(オラ・レイ)


orarei.png

ここがあの映画館らしい。

2010/4 /28(水)19:00~20:00
2010/4/29(木)16:00~17:00
2010/5 /5(水)19:00~20:00
2010/5/13(木)20:00~21:00
2010/5/14(金)15:00~16:00
2010/5 /27(木)19:00~20:00
2010/6/20(日)19:00~20:00
2010/6/25(金)19:00~20:00
2010/6 /28(月)26:00~27:00
2010/6/30(水)19:00~20:00

簡単に紹介。

 

LA→GARY→detroit→LA

tizu.jpg

 

AIちゃんがマイケルゆかりの地を訪問します。

①LA

トラビス[ぴかぴか(新しい)]
僕はマイケルのダンサーとしてこれまで様々なツアーに参加してきた。
だから"THIS is it"の話がでたときも、当然今までと同じダンサーでツアーすると思っていた。
だって、ずっとマイケルとともに活動してきたダンサー達が参加した方が
振付も知り尽くしてるし気心も知れてるから安心だよね

ところが、ある日朝の6時にマイケルから電話がかかってきた。

よくあることだったよ。
電話に出たらマイケルが「寝てたかい?」って聞くから
「いや、起きてたよ、何の用?」と聞き返した。

すると彼は「新しいダンサーを探す」というんだ。
すぐに信じられなかったから何度も聞き返したよ
そして、しばらく僕もマイケルも電話口で黙り込んでしまった。

彼は自分の主張が通るか心配そうだった。
つまりマイケルが意図してたのは
若い世代にチャンスを与えて技術を伝えていくことだったんだ。

僕は彼の思いを理解して身を引くことに決めた。
そうなると新しいダンサーを募集しなきゃいけない。
僕はツアーの宣伝を兼ねてwebでの募集を提案した。

映画のコーラスラインみたいにしようと思ったんだ.

このチャンスがいかに重要なのかダンサーに知って欲しかったしね。
マイケルの了解を得て僕はすぐに行動を起こした。
世界規模で新しいダンサーを探し始めたんだ。

すると約5000人ものダンサーがwebsiteに動画を投稿してきた。
LA に約3,000人集めて3日かけてオーデションを行った。
初日、男性
2日目、女性
3日目、合同

最終的に選ばれた人たちの中にこのケントがいたんだ。
ところが彼のスケジュールが合わなかった。
彼にはうれしい悩みだけど
我々は残念で仕方なかったよ。
だって彼のダンスに惚れちゃったからね。

オーデションで彼のダンスをみて本当に理想的だと思った。
こんな遠い国の人がマイケルの影響をうけていて
そして自分のスタイルを持ってダンスが出来るなんてすごいことだよ。

でもこうして出会えてよかったよ。
また今後一緒に、なにか出来るはずだから。







②雪のインディアナ(ゲーリー)
一方通行の看板

スティーブ・マニングさん[ぴかぴか(新しい)]

mon1.jpg
"2300ジャクソンストリート"ここがすべての始まりさ。
あの家に12人暮らしていたんだ。
この家であれだけの才能が開花したんだ。

母親はこの家で息子たちの衣装を作っていた。
父親は近くの製鋼工場に勤めていて
彼らはいつも父親が帰宅してから練習してたんだ。

1960年当時のゲーリーは今と変わらず治安が悪かった
だから、父親は息子たちを非行に走らせないよう
練習漬けにしたんだ。
父親も当時ファンルコンズというグループでギターを弾いていた。
そして、ある日ティトがクローゼットにあったギターを発見した。

ティト・ジャクソン[ぴかぴか(新しい)]
父はクローゼットにギターを入れていて
仕事に行く前は、いつもギターに触らないようにとくぎを刺してから出かけた。
ある日ギターの弦を切ってしまったんだ。

thito.png

僕の仕業だと知った父は
僕にギターを弾くように命じた。
僕の演奏に驚いた父は、翌日ギターを買ってくれたんだ。

叔父もギターを弾く人で週末によく家に来ていた。
叔父と父が演奏するブルースなんかを僕は必死に聞き入っていたよ。

そして二人がいないところで彼らのマネをしてギターを弾いてた。
たったひとりでね。
その後、腕が上達すると兄弟が僕のギターに合わせて歌い始めた。

それが僕たち兄弟の物語の始まりだったんだ。

[家]ミスター・ラッキーラウンジの紹介(AIちゃん中に潜入)

ジャクソン5はここで開かれたショーで初めて優勝したんだ。
その優勝によって彼らは最初のレコード契約をすることが出来た。
そして彼らは「スティールタウン・レコード」と契約を結ぶことになった。

ゴードン・キースさん[ぴかぴか(新しい)]

mon2.jpg
マイケルは信じられないほどダンスが上手だった。
それに、とても可愛かった。
これは、すごい子が現われた
必ずスーパースターになれると思ったよ。

私はすぐに彼らの居場所を探して父親に連絡入れたんだ。
父親のジョーが自宅に招いてくれた。
約1週間後ジャクソン5を
シカゴの"サニーソイヤーズ"というスタジオに連れて行ったんだ

彼らは楽器の演奏がそれほど得意でなかったんで
ミュージシャンを何人か手配することにしたんだ。
ともかく、私の目当てはマイケルだった。

ラリー・フラシンゲインさん [ぴかぴか(新しい)](元ジャクソン5ギタリスト)

mon3.jpg
ある日スタジオでPDのエド・シルバとはち合わせた。
レコーディング中だったエドは、私を見つけると
ジャーメインのベースを調整するよう頼んだので
調整した。当時は調整のことえをチョークと言った。

エドは私にギターを持ってくるよういった。
気が付いたらジャクソン5とセッションしていた。

 ゴードン・キースさん[ぴかぴか(新しい)]


レコードの売れ行きは最初はゆっくりだった。
しかし
彼らがどこかでライブを行った翌日は
100枚単位でレコードが売れたんだ。

ジャーメイン・ジャクソンさん[ぴかぴか(新しい)](兄さん)

mon4.jpg
たくさん努力したよ
初めて、僕らの才能を見出したのは父なんだ。
僕らは、いろんなコンテストに出たし、シカゴのショーにもでた。
とにかく
常に何かに備えて練習ばかり繰り返していた

おかげで本番では全く緊張しなくなった。

歌やハーモニーの練習は
歌が得意な母と一緒にやっていた。

父は僕らが母と歌う姿を見て、僕たちの才能に気づいたんだ。
その後は父も母も僕らを応援して背中を押してくれた。

ティト兄さん[ぴかぴか(新しい)]

mon5.jpg←クッション抱えてるのが可愛い


初めて弟の歌声を耳にした瞬間から
特別な存在になると思っていた。

あの年齢であんなふうに歌えるなんて
ものすごいことだと思ったよ。

弟には、特別な才能があると確信した。

ジャクソン5は元々、僕とジャーメインとジャッキーの3人で
活動するグループだったんだ。
弟のマーロンとマイケルは
こんなに小さかったのにグループに入りたがっていた。

でも、僕たちは「部屋から出てけ!」と追い出してたよ。

でも、2人の歌声を聴いてからグループに入れてあげたけどね。

③デトロイト

[家]モータウンミュージアム

mon6.jpg
廊下に並べてあるのはアルバムのジャケットよ。
アルバム「インディアナへ帰ろう」

ここはスタジオA
多くの才能が花開いた場所よ。
所属アーティストは1972年までここで演奏していたわ。
狭いから録音中は人でいっぱいになるの。

のちに、会社が大きくなってから建設業をやってるゴーディの父親が
楽器の音がかぶらないようにと防音室を3つ増築したのよ

でも、最初はここで録音したのよ。

昔は1本のリールですべて録音したの。
だから途中で失敗したら最初からやり直してた。
昔は、間違えたらやり直すしかなかったの。

このギャラリーではモータウンの初期のアルバムを飾ってあるわ。
この辺にはミュージシャンの写真がないでしょ。

1960年代初期は、人種問題が少し加熱してたせいで
黒人アーティストのアルバムを買わない白人もいたの。
だから写真を使わなかった。

でも、その後またジャケットに写真を使えるようになったわ。

これは、市民が誇りにしてるデトロイトでの
キング牧師の演説よ。

この演説は6月だから、あの有名なワシントンDCの演説より前ね。

オードリー・スミスさん[ぴかぴか(新しい)](館長)

mon7.jpg
R&Bは1950年代後半から1960年代前半にかけて
アメリカ全土で大人気になった。
実はR&Bは、ここデトロイトで大きな成長を遂げたんだ。

ジャズクラブや黒人教会がたくさんあったからね。
彼らは主に即興で歌を歌っていた。

ジャンルでいうと、ジャズやブルースだ。
この街にはそういう土壌があったから
力強いソウル・ミュージックが熟成していったんだ。

そしてその音楽は
世界中で愛されるよいになった。

ゴーディ氏は「モータウン・レコード」を設立して
日常で歌われている音楽を取り上げることにしたんだ。

また、彼は若者たちを育てることに心血を注ぎ
才能のある若者たちを一流のエンターティナーに育て上げた。

マーヴィン・ゲイ
スティービー・ワンダー
テンプテーションズなど
彼らがモータウン・サウンドを作っていったんだ。

ジャーメイン[ぴかぴか(新しい)]兄さん

mon8.jpg

僕らは最初地元のコンテストやシカゴ周辺で活動していたんだ。
あるとき、デトロイトでゴーディのオーディションを受けた。
オーディション会場は彼のプール付き邸宅だった。

スモーキー・ロビンソンなどの
大スターを前にしたオーディションだ。

だから、僕らはモータウンの音楽を
たくさん披露することにした。
それが大スターを前にした最初のステージだった。

そして、ベリー・ゴーディは僕たちを気にいってくれた。

彼は「君たちにナンバー1ヒットを3曲作ってあげよう」といった。

ABC
帰って欲しいの
小さな経験が1位を獲得した。

その後もアイル・ビー・ゼアなど次々とヒット曲が生まれた。

スティーブ・ポポビッチさん[ぴかぴか(新しい)](元エピックレコードA&R)

mon9.jpg
彼らはまさに、天才児だったよ。
ジャクソン5は歴史に残るような名曲を世に送り出したんだ。
「帰ってほしいの」などね。

私の8歳と10歳の孫も彼らの曲のファンだ。
幅広い世代に支持されている。
モータウン時代の曲は心に響いてくるんだ。

ゴーディは優秀なプロデューサーと作詞家、演奏家
そして歌手を抱えていた。
そしてダイアナ・ロスのように多くのスターを磨き上げたんだ。

英国の女王とだって会話ができるレベルまでにね。

彼のアーティスト育成方法は他社にはマネできないことだった。
当時、アーティスト用の学校も存在した。

[家]モータウンミュージアム
ハットとグローブ(右手用)
クリスタル仕上げよ
ここから見るとわかるけど裏地に
マイケルの名前が刻印されてるの。

mon10.jpg

ここにあるのは"エコーチェンバー"
音が反響するの
当時はスタジオからコードを延ばしてここで音を鳴らしたの
そして反響して大きくなった音を録音していたのよ

オードリー・スミスさん[ぴかぴか(新しい)](館長)

mon11.jpg
モータウン・サウンドは様々な音楽を元に誕生した。
まずは、黒人教会の黒人霊歌やブラック・ゴスペルだ。

黒人霊歌は意見をぶつけ合うように歌うスタイルだ。
そして、その歌は多くの即興で構成されている。
それと似たようなスタイルはブルースの分野でも起こっていた。

南部出身のミュージシャンには農園で過酷な生活を強いられていた人たちがいる

だから、彼らの歌う曲には
そういったつらい経験が表現されているんだ。

それから、ジャズ
これは即興の音楽だね。
特にクラシカル・ジャズはほとんどが即興なんだ。

今、紹介してきたような複数のジャンルの音楽が
"リズム&ブルース"つまりR&Bと融合することになった。

それがモータウン・サウンド
"サンド・オブ・ヤング・アメリカ"の土台だ。

フランク・ディレオさん[ぴかぴか(新しい)](元エッピックレコード宣伝部長マイケルジャクソンマネージャー)

mon12.jpg
アルバム「スリラー」があんなにヒットするとは思わなかった。

マイケルは、私に
「いままでと、違うことをやるの?」
と聞くから

「シングル2枚を同時に発売する」
と答えたんだ。

すると彼は笑っていたね、会社が許可しないと思ったんだろ。
でも、私は会社と対立してでも
自分のやり方を押し通すつもりでいた。

それでもマイケルは無理だと言い続けていたよ。
だから彼に
「何とかするから私に任せろ」といった。

そんな経緯があったんだ。

1枚目はポール・マッカートニーとのデュエット曲だから話題になると思った。
その曲はアルバム発売の4週間前にリリースした。
1枚目を終えたあとは次の作品に向けて集中したよ。
次の曲「ビリー・ジーン」がヒットしたきっかけは
モータウン25周年記念スペシャルに彼が出演したことがきっかけだった。
「ビリー・ジーン」は一気にトップ10まで駆け上がっていった。

当時は部門がわかれていた。
シングルを扱う部門や
アルバムを扱う部門という具合にね。
私は、全部を統括していた。
同僚にビル・ベネットという
のちに他社で成功を収めた若者がいた

(ビル・ベネット)
ロック専門ラジオ曲に向けて「今夜はビートイット」のリリースを指示した。
ところが彼は
「それは出来ない」と拒否したんだ。
純粋なロックでないマイケルの曲は使われないと言うんだ。

そこで私は作戦を考えた。
ラベルに何も書かれていない12インチのシングルを60枚つくり
それを関係者に送って様子を見ることにしたんだ。

しかしビルはまだ不満そうだったので
「これは上司命令だ」といって実行させたんだ。
それから4~5日してビルが私にこう言った。

「みんな曲を気にいってる。特にエディ・ヴァン・ヘイレンをね」

マイケルでなく、ギターソロのエディに注目が集まったんだ。

でも、それをきっかけにビルボードのチャートを駆け上がっていった。

その当時MTVは設立して、まだ5~6カ月くらいだった。
彼らのポリシーはロックを放送することだった。
ポップスでもR&Bでもなく。

当時マイケルはR&Bの歌手だと思われていたから
「今夜はビート・イット」を放送させるのには苦労したよ

だから2つのやり方で攻めた。

まず、私が書類を用意して先方に送り付けた。
そしてCBS社長のウォルターは
先方に電話をかけてこう言った
「これを放送しないと今後一切ビデオを配給しない」とね

そして彼の曲が放送され続けた結果
当然のようにトップ5までに上り詰めた。
その後もリリースを続けて気づいたら7曲になっていた。

最後に手掛けたのが「スリラー」だが
ビデオが無かったんだ。

マイケルが乗り気じゃなかった。

私は彼の自宅に行ってビデオを製作すべきだと説得した。
方向性が決まらない彼に私は言った。
「ダンス・歌・恐怖それで十分だ」って。

thiller1982

オラ・レイさん[ぴかぴか(新しい)]

mon13.jpg

「スリラー」のビデオを監督したジョン・ランディスに会いに行ったの
オーディションだったんだけど
実はそのとき私は事務所から何の仕事か聞かされてなかったの。

オフィスに着いたら突然、監督に台本を渡された。
そして、今から流す曲に合わせて歩きまわって踊るように言われたの。
そしたら、なんと流れてきたのがマイケルの曲だったの。
曲を聴いて、これは何としても合格しなきゃいけないって思った。

その後、衣装合わせをしたけど
どの服もイマイチだった。
映画館にいくという設定のはずなのに衣装はセクシーすぎたり
生地が薄いものばかりだったの。

私だったらこんな服で映画館には行かないと思いながら服を見てた。
そして、ふと後ろをみたら
うしろにマイケルが立っていたの
本当にびっくりしたわ

その時のマイケルはすごく可愛かったわ。
蝶ネクタイをしてたのよ

[かわいい]2つの衣装を着たよね?

mon14.jpgmon15.jpg
そうよ、気づかない人が多いけど私1人で2役を演じたの。
みんな、あの2人の女性は違う人だと思ってたみたい。
マイケルと車で登場してくるポニーテールのウブな娘も私だし
映画を見たくないからといって帰ろうとする娘も私が演じてるのよ

マイケルはマスクをつけると人が変わって積極的になるの。
活発でおしゃべりになって、ふざけたりするのよ
普段の彼は恥ずかしがり屋なんだけど。
マスクをして狼になると性格が変わるのよ

④LA

[家]ここがスリラーのビデオでロケに使われた映画館よ。
ここに来れてうれしい
いろいろ思い出しちゃうわ。

あまり食べなかった。
彼はベジタリアンなのよ
彼はサラダやピーナッツが好きだった
私が見たのは
サラダとピーナッツだけよ。

「チキンはないの?」と聞くと「食べないから」と言ってたわ。

フランク・ディレオさん[ぴかぴか(新しい)](元エッピックレコード宣伝部長マイケ ルジャクソンマネージャー) 再び
「スリラー」が成功したのはあのビデオの効果が大きいだろうね
結果として1400万枚もの売り上げを記録することになった。
それも発売からたった6週間ほどでだよ。

出来のいい先品は必ず売れるんだ。だからこれは売れたんだ。
出来の悪い作品は決して売れることはない。
たとえ、どんなに一生けん命作品を宣伝したとしてもね。

当時の音楽業界は元気が無く小売店は閉店に追い込まれていた。
どのレーベルでもリストラが行われていた。
レコード店に足を運ぶ人も現象していた。

マイケルの「スリラー」が
そんな業界を生き返らせたんだ。

みんな、お店に引き寄せられ1人が3枚もCDを買っていた。
1人で4枚買う人もいたよ。
それで業界の多くの人が失業せずに済んだんだ。
「スリラー」のおかげだよ。

オラ・レイさん[ぴかぴか(新しい)]再び


マイケルには本当に感謝している。
あの役に私を選んでくれたんだもの。
当時はあの作品がここまで話題になるとは思わなかった。
今では永遠に歴史に残るような作品になったわ
彼と仕事をするという素晴らしい経験ができて感謝している
マイケルは"愛"そのものだったわ。(オールアバウトラブ)
そして純粋な人だった。
あんなに純粋な人には出会ったことが無いわ。
子どものままの心で世界中に愛を広めてくれたの。
彼の魂は永遠に生き続けるわ。

 

フランク・ディレオさん[ぴかぴか(新しい)](元エッピックレコード宣伝部長マイケ ルジャクソンマネージャー) 再び


みんな「スリラー」ばかりに注目しているが
2500万枚以上売り上げた「バッド」を忘れてはいけない

BAD1987

このアルバムからもビデオたくさん生まれた
まずは「リーヴ・ミー・アローン」
そして「バッド」はマーティン・スコセッシが監督だ。

他にもジョー・ピトカが監督した「ダーティ・ダイアナ」などがある。
アルバム「バッド」は重要な作品だ。
ほとんどの曲をマイケル自身が書いた
彼はソングライターとしての才能も証明したんだ。

実は「バッド」のシングルは元々
マイケルがプリンスと歌うために書いたデュエット曲だった。

でも、プリンスが拒否したので曲はお蔵入りになろうとしていた。
私はマイケルに1人で歌えと言った。

でも彼は

デュエット曲だからといって乗り気じゃなかった。
そこで、私とクインシーは
マイケルに「バッド」をソロ用の曲に書きなおすよう説得したんだ。




元々はマイケルが歌いながら登場して
そこにギターをもったプリンスが来て一緒に歌い始めるはずだった。

"俺がバッドだ 君がバッドだ"なんてね(フーズバッド ・・・)

彼と過ごした時間は楽しかった。
彼は世界トップのいたずらっ子だよ。
彼はよく、窓際でカーテンの合間から姿を見せて
外にいるファンをからかって熱狂させていた。
彼が部屋に戻った後も外では歓声が続くんだ。

あるとき、マイケルに呼ばれて私も窓際に行った。
すると彼は私のポケットからお金を取り出して窓から投げたんだ。

私はいつも大金を持ち歩いていたんだが
その金がそこらじゅうに舞っていた。
それを見た彼はお腹を抱えて大笑いしていたよ。
でも彼は本当にいいやつだった。

文句のつけどころがないよ。

彼は理想の息子だった。
彼は理想の友達だった。
彼は理想の食事相手だった。
彼がいなくなって心底寂しいよ。

 

【感想】
黄色くアンダーラインしたエピソードですが
全然面白くないんだけど
(面白いですか??)
これが大笑い出来るのが、ピュアな心なんでしょうね。

 

 


nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ

nice! 2

コメント 4

kachan

コッスンさん!遅くなってごめんなさい。
絶対どこかにアップしたはず!とコッスンさんのコメントをたどりにきましたら、
すごいではないですか!!
今さっきまた録画のものを見ていて、ブログネタにするには、これ結構長いなーって思っていたところです。
これ何回も再放送しちゃってますね!

BADの件はやっぱプリンスと共演しなくてよかったな、なんて思いました。
プリンスは97年のインタビューで、
「最初の歌詞は”ケツはつかんだぜ”なんだ。
どっちがどっちに向かってそれを歌うんだ?って思ったよ。ケツをつかまれるにしても、つかむにしても、どっちにしても勘弁だったからな。そっからもう、暗礁に乗り上げたってわけさ」
とかって言ってました。芸術面にせよ他の理由でもマイケルに勝てっこないと分かって辞めたみたいです。

黄色いアンダーラインのエピソード、マイケルはいたずら好きだったんですね、って感じですね。笑えても大笑いはしないですよね。はは。


by kachan (2010-05-26 21:53) 

コッスン

わー、こんなところまでようこそ。
私は、全部知らないことだったので
何のコメントも出来ませんので
まんまメモりました。^^;

>最初の歌詞は”ケツはつかんだぜ”なんだ。
そんなに悪い歌詞ではないと思うけど。
BAD(kick-ass的意味の)には、ナイスなんじゃない?(笑)

私の想像では、二人並ぶと
断然マイケルのほうがカッコいいから
プリンスはいやだったんじゃない?
なんてね。

私はこの放送をみて
フランク・ディレオさんの判断と
売り込みやPRの能力は素晴らしいと思いました。
よっぽど、マイケルの才能を信じて疑わなければ
こんな判断や指示は出来ないと思いました。
最後のセリフで
泣きそうになりました。

黒いサングラスかけてたけど
きっと、泣いてたかもです。フランクさん

by コッスン (2010-05-27 00:09) 

ram

え~~~こちらだったのですね~~~!!
コッスンさん、ありがとうございます(泣)!
メインのブログのほうで、アップされると思い込んでいて・・・
ぽちぽちしていたので、気がつくの遅くてごめんなさい!
わ~~うれしいです!
まだ見れる環境にない私、初めて見て・・・
「わ~キャー」言いながら
かじりついて見てました!

トラビスのマイケルとの信頼関係、強い絆で結ばれてたんでしょうね。
ケントさんのコメントもマイケルへの愛を感じて
泣きそうになりましたし・・・・。

モータウンでジャクソン5のブレイクまでの話も
ベリー・ゴーディーの本が甦りました。

フランク・ディレオさんエピソードも
うれしいです。
マイケルの宣伝部長として豪腕振るわれたのですね。
いたずらマイケルのエピソード、
マイケルって窓から色々投げるの好きなんですよね!
お金も投げるし、
風船に水を入れて投げたり、枕にサインをして投げたり
相手があっけに取られるの楽しんでるんですよね
ホントお茶目!
マイケルがプリンスと共演するために作った
最初のBADってどんな曲だったのかな~聞きたい気もします^^


コッスンさん!
こんなに詳しくありがとうございました(泣)
感謝の気持ちでいっぱいです!!!!




by ram (2010-06-05 21:56) 

コッスン

ram様
あー、連絡するの忘れてました。
ファイル容量がヤバイので
分けてるんですが
管理画面で、勝手にこっちになったり
向こうになったりするときがたまにあります。
すみません。紛らわしくて。

マイケルはイタズラ好きなんですね。
私はイタズラッ子じゃないから
冷めて見てしまった。
でも、こういうイタズラを笑えるって子どもみたいな
ピュアな心なんだと思いました。
オラレイさんもそう言ってたしね。
(子どものままの心で世界中に愛を広めてくれたの。)

マイケルのこういうとこ
まったく知らなかったです。
こういうプログラムを見るたびに
えー!!そんな人だったんだ。と
驚くばかりです。

by コッスン (2010-06-06 16:19) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。